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下北弁について

■ 下北弁とは

■ 広大な南部藩領

■ 独立させて考える理由

■ 歴史的背景

■ 地理的背景

■ 下北弁の境界はどこ?

 

下北弁が生まれた歴史的背景

下北半島は、かつて南部藩(盛岡藩)の領地でした。当時は、藩の重要な湊である下北七湊(田名部七湊ともいう)が開かれ、西廻り航路によって北前船が往来していました。廻船問屋もあり、船番所が置かれていたといいます。今では当時の面影を見ることはできませんが、問屋の倉が立ち並び、下北からは長崎俵物の煎海鼠・干鮑、昆布、〆粕などの海産物が出荷され、他地域からは蝦夷錦など珍しい品々が下北に入ってきました。また、古川古松軒の『東遊雑記』によると、田名部は北郡にしてはずいぶん大きな町で、川が流れ、大湊湾に入った北前船と結んで川舟が往来してたと記されています。

下北七湊と田名部

 

物流や人の移動にともない、下北には上方の文化も入ってきました。現在では、行事・祭礼にその痕跡をみることができます。上方からは祇園祭の流れをくむ山車祭がもたらされました。また、佐井村福浦に伝わる福浦歌舞伎は上方の歌舞伎役者によって伝えられました。

上方から伝えられた田名部まつり

 

交流は上方だけではなく、津軽の人々とも行われていました。藩政時代、南部藩と津軽藩が激しく対立しておりました。陸路を通じての往来は厳しく制限されておりましたが、下北の人々は海を介して津軽の人々と交流をしていました。交流があれば言葉や文化の流れがおこるのは至極当然のことです。その痕跡は、下北地方で古くからネブタが行われてきたことからもうかがえます。青森県内でネブタを行うのは下北地方と津軽地方だけです。菅江真澄の日記によると、江戸中期にはすでに大畑でネブタの原型となる行事が行われていたことが記されています。

近江、越前、越中、越後からの船乗り、商人、漁民といった職業の人々の移住もありました。北方交易に力をそそいだ加賀の大商人銭屋五兵衛の支店がおかれるなど、下北は北方と上方の文化が入り乱れる地域でした。

ともすれば、現在では「不毛の地」だの、「文化果つる地」と書き叩かれる下北の地も、これらの人々にとっては安住の地であり、またこうした人々がもたらした文化であふれた地でした。これらの人々の墓は今でも下北の寺に残っております。

海上交通から陸上交通に目を向けますと、田名部に代官所がおかれ、南部藩の重要な街道の一つである田名部街道(国道279号)が野辺地から、北浜街道(国道336号)が八戸、三沢を経由して下北半島に向かって延びていました。また、南部藩は、南部九牧(なんぶくまき)のうち3つ(大間の牧、奥戸の牧、蟻渡の牧)を下北半島内に置き、馬の繁殖、育種に力が注ぎました。江戸後期から幕末には数百人の南部藩士を下北半島沿岸に配置し、対ロシアの北方警備にあたらせました。

南部文化の痕跡は、東通村の田植え餅つき踊りや山伏系神楽、食文化では川内町のけいらんなどにみることができます。

明治以降、会津藩の斗南転封によって多くの旧会津藩士が下北にやってきて、開拓にあたりましたが、その大半が敗戦や長旅による肉体的・精神的疲労、飢えや寒さ、病気で亡くなり、数年で下北を去りました。しかし、これらの人々の中には下北に残り、困難を乗り越え、定住した人もおりました。

明治、大正期には、津軽の農家から養子として下北の家庭にもらわれた子どもたちがおりました(私の祖父もその一人でした)。

このように、下北方言は上方、津軽、南部など他の地域との交流の歴史、人々のダイナミックな移動の歴史のもとに形成されたと考えられます。

陸上交通の発達した近年では、とかく人は陸でばかり物を考えがちです。むかしの人々は海を有効に活用し、日本人が「海の民」であったことを忘れてはなりません。とくに、下北の歴史は海をなくして語れないのです。

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作成更新:2006年3月31日

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