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下北弁について

■ 下北弁とは

■ 広大な南部藩領

■ 独立させて考える理由

■ 歴史的背景

■ 地理的背景

■ 下北弁の境界はどこ?

 

下北弁が生まれた地理背景

下北半島は青森県北東部に位置し、津軽海峡、陸奥湾、平舘海峡、太平洋に囲まれた鉞形の半島です(別名まさかり半島)。

むつ市田名部を中心に、北通り(津軽海峡に面すむつ市大畑町、風間浦村、大間町、佐井村)、西通り(陸奥湾に面すむつ市川内町、むつ市脇野沢)、東通り(太平洋に面す東通村)の三地域に分けられます。

(1) 地勢

「まさかりの柄」に相当する部分は、南北に下北丘陵が走り、野辺地町からむつ市田名部までで約50km、横幅は約15kmと細長い形をしております。

また、「まさかりの刃」に相当する部分は、中央部に恐山山地があり、昔も今も人の居住地は海岸部に集中しています。海岸部には歴史的背景でも述べたように下北七湊(田名部七湊)があり、海運が盛んでした。現代では、漁港としてその名残をとどめています。

むつ市田名部までは、盛岡藩の城下であった岩手県盛岡市からの距離はおよそ200km、八戸藩の城下であった八戸市からはおよそ100kmあります。藩政時代の言葉の中心地である城下町(現在の岩手県盛岡市)から遠く離れたところに位置していました。

「まさかりの柄」の部分の南北の長さ、それと城下の盛岡や八戸から遠距離にあるったことで、南部方言の下北半島への陸上伝播をいくぶん抑制され、一方で海運によって言葉の海上伝播が促進されたと考えられるのです。

 

(2) 交通

下北半島への陸路でのアクセスは、陸奥湾側を北上する田名部街道(国道279号)と太平洋側を北上する北浜街道(国道338号)、JR大湊線(野辺地-大湊)に限られております。

田名部街道と北浜街道との間には何本か道が通っていますが、いずれも下北丘陵を越える山道です。

田名部街道は別名ハマナスラインと呼ばれ、下北半島への大動脈として整備されてきました。一方、北浜街道は、六ヶ所村泊(とまり)と東通村白糠(しらぬか)の境にある物見崎周辺で道幅の狭いつづら折りの難所となっております。

下北半島へのアクセスルートの少なさ難所の存在もまた南部方言の下北半島への陸上伝播を抑制したと考えられます。

(3) 野辺地町の存在

下北半島の付け根には野辺地町があります。野辺地町は、下北半島へ延びる田名部街道の起点であり、藩政時代より下北の湊と同様に大きな湊が開け、上方の言葉・文化の移入地となっておりました。

下北半島への玄関口である野辺地町において、南部方言が強力に上方の言葉の影響で形を変えてしまっているため、下北半島地域の言葉におよぼす南部方言の影響は弱いものとなったと考えられます。

このように考えると、海上伝播なくして下北方言を語ることはできないといっても過言ではないのです。

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作成更新:2006年3月31日

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